東京慰霊の旅その1の続きです。
翌8月15日にはまず東京都慰霊堂を訪れ、お参りしました。
東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。この地にあった被服廠は大正8年に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になっていた。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで(推定)東京市全体の犠牲者の半数以上の3万8000人程度が犠牲になったとされる。
震災後、犠牲者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって1930年9月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。身元不明の遺骨が納骨され、1931年(昭和6年)には震災復興記念館が建てられた。
その後、第二次世界大戦における1944年・1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが犠牲となった。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。
本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災犠牲者、空襲犠牲者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。
(wikipedia「東京都慰霊堂」の項より)
春と秋、それぞれ東京大空襲と関東大震災の日に併せて仏教各派による法要が東京都主催で行われているそうです。
しかし8月15日には東京都神道青年会による慰霊祭が行われるということで、堂内には青年会始め東京都神社庁各支部からの献花がお供えされていました。
たまたま知ったのですが私の義弟が当日楽人として奉仕したとのこと。
首相の靖国神社参拝を政教分離違反として非難する人は東京都主催の慰霊祭が仏式で行われていることに対してどのように思っているのでしょうか?もちろん私はここでの慰霊祭がおかしいなどと言っているわけではありません。またそのような主張をして仮にも裁判に訴えたりするような神職は一人もいないはずです。ここで慰霊祭を行っておられる宗派の方々が靖国訴訟に加わっていないことを願うのみです。もしいるとすれば、「政教分離違反」の主張がただの方便であることを意味するからです。
そして靖国神社へ参拝しました。
地下鉄千代田線の九段下と市ケ谷の中間辺りにありますが、やはり九段坂を登らなければという気になりますので、いつものように九段下で降り、てくてく歩きました。
観光バスもたくさん停っています。
門には半旗が掲げられていました。
参拝は老若男女、またスーツや普段着のような格好の方々と様々でした。
昨年の方が人出が多かったと思いましたが、実際に今年の8月15日の参拝者は昨年の三分の二ほどだったようです。それでも約16万人という多数です。
というわけでささやかな慰霊参拝の東京巡りを済ませて関西へ帰りました。