有馬温泉へ行かれたことはあるでしょうか?色々なお土産の中に、竹細工があったのを覚えておられる方があるかも知れません。昔から、山口は有馬温泉で売られていた有馬籠の産地だったのです。徳川末期、大阪商人によって長崎港から初めてオランダへ輸出するようになり、明治八年に神戸港製茶取扱商館が製茶の外装箱に竹籠を利用することを考案し、その製造を有馬に求めましたが、有馬の土産物製品技術と異なるので山口がこの注文を受けて貿易の端緒をつかみました。こうして有馬温泉の土産物から貿易品へと発展した竹籠は改良に改良を加え、その組み方も鎧とじ・菱木・手筋等から、明治二十年頃には花籠、針刺し、瓶入れ、買物籠などの日用家庭品にまで発展し、その需要も大幅に増加して、明治三十年ごろには竹材に柳、経木を交え、さらに編方、意匠などにも考案工夫し、染色技術も施して美術品的な価値まで向上し、山口籠は一躍国の内外に高まりました。
明治末期から国内向けはもちろん、輸出品として遠くはヨーロッパ、東南アジア等へも輸出していましたが、第二次世界大戦で一時中断し、もっぱら国内向けの実用品の生産に重点を置きました。そして戦後海外貿易の再開によって再び活発となり、アメリカ方面へ大量に輸出されました(「山口村誌」より)。プラスチック製品の普及により製造は減少しましたが、芸術的な高度の伝統技術は現在も注目されています。
さて、公智神社には、塩津神社(しおつじんじゃ)という境内末社がございます。昭和27年11月、有馬竹製品商工企業組合の事業として、滋賀県伊香郡塩津村塩津神社より御分霊をいただき、竹籠業者の守護神としてお祀りされ、毎年5月13日には「竹まつり」が行われています。ここにお祀りされている神様は、「塩土翁(シオツチノオキナ)」「彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)」「豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)」の三柱ですが、そのうち塩土翁が竹籠の神様です。この三柱の神様は有名な「海幸彦・山幸彦」のお話に登場します。
ホヲリノミコト(彦火々出見命)は山幸彦として山にいる獣をとり、兄のホデリノミコトは海幸彦として海の魚をとって暮らしていました。ある時ホヲリノミコトが兄に「それぞれの道具を交換して使ってみよう」と言われました。兄のホデリノミコトは許さなかったものの、やっとのことで取り替えることができました。ホヲリノミコトは漁具を用いて魚をお釣りになったものの一匹もとることができず、その上釣り針を海に失ってしまわれました。兄のホデリノミコトが「山の獲物も海の獲物も自分の道具でなければとることは出来ない。今はそれぞれ道具を返そう。」と言われたとき、ホヲリノミコトは「あなたの釣り針は魚を釣ろうとしたが一匹も釣れなくて、とうとう海になくしてしまいました」とお答えになりました。しかし兄はむりやりに返せと弟を責めました。そこで弟は身につけていた剣を砕いて五百本の釣り針を作って償おうとされましたが、兄は受け取りませんでした。また千本の釣り針を作って償われましたが受け取らず「元の釣り針を返してくれ」と言うのみでした。
こうして弟のホヲリノミコトが泣き悲しんで海辺におられたときに、塩土翁がやって来て「あなた様の泣き悲しんでおられるのはどういうわけですか」と尋ねました。ホヲリノミコトは答えて「兄と釣り針を取り替えて、その兄の釣り針をなくしてしまったのです。ところが兄が釣り針を返せというので、たくさんの釣り針を作って償おうとしたのですが、受け取らないで『やはり元の釣り針を返せ』と言うので泣き悲しんでいるのです」とおっしゃいました。
そこで塩土翁は「私があなた様のためによい計画を立てて差し上げましょう」と言って、早速竹を隙間なく編んだ籠の小舟を造り、その船にホヲリノミコトを乗せて、「私がこの舟を押し流しましたら、しばらくそのままお進みなさい。よい潮路があります。その潮路に乗ってお進みになったなら、魚の鱗のように家を並べた宮殿があり、それがワタツミノ神の宮殿です。その神の宮の門においでになれば、傍らの泉のほとりに神聖な桂の木があるでしょう。そしてその木の上にいらっしゃれば、その海の神の女があなたのお姿を見て、取りはからってくれるでしょう」と言いました。
この後、海の宮殿で火々出見命は豊玉姫に出会います。古事記の中で最も美しく、詩情豊かと言われるこの物語、是非ご自分で読んでみて下さい。 塩土翁は困っている火々出見命のために竹の舟を造り、また知恵を授けたことから知恵の神様としても知られています。